ゼノなブログ。

ゼノシリーズのお話。

ゼノシリーズの考察を行う前に大事なお話。

早速このブログでこれから沢山の考察だとか、設定だとかの話をしていきたいと思っていますが、その前にとても大事な前提となるお話をしたいと思います。
それは…実は、設定や考察というのは、あくまでもこのシリーズ作品においては、オマケ要素でしかない。そして私は、所詮はそのオマケ要素の部分しか語れない。…ということです。
投稿二回目にしていきなり根幹を揺るがす発言ですが、これはとても大事な事です。
ゼノシリーズというのはその深く壮大な世界観が魅力の一つであり、間違いなく少なくない人口がその点にも惹かれてプレイしています。
ですがそれは実は、よく冷静に考えれば考えるほど、魅力の中のほんの一部分でしかないのです。

 

いくらフェイやエリィの持つ特殊な生い立ちや境遇の設定を語ろうとも、フェイやエリィが実際いかに苦悩し、愛を語り、ゆえに接触者や母としての役目を最後に果たしたのか?といった事は劇中の言葉なくしては説明しきれません。
またゼノブレイドのインタビューでは、このゲームに対する詳細な設定の質問を受けた事に対して、ゲームで見せたものが全てである、(設定は)なくても作れる、設定資料にする労力は削ってしまえるものだ、と以前に監督は話していました。(モナドアーカイブス)
我々はモナド3が性質や設定的に一体何なのかを考察するより先にまず、シュルク達が劇中の旅の中でどういった苦悩や困難に仲間と立ち向かった上で導かれた意志の結果がモナド3なのかについてはいくらでも語る事ができます。
それは実は、設定の有無とはあまり関係がありません。
ゼノサーガにおいて残念な部分というのはまさにそれで、壮大な設定や考察はいくらでもできますが、肝心のシオンの心の内側というのはあまり表現・解決仕切る前に作品が終わってしまいました。
だからヴィルヘルムを打破しツァラトゥストラを止めた理由も、ロストエルサレムを探しに行く根拠も、その後どうなったのかも、いまいちスッキリしない終盤~エンディングとなってしまいました。(このブログでは話すつもりですが。)

当時公式側から言われていたようにゼノサーガ全体のお話としては元々EP3内で終わらせるつもりがないために未完であり、EP1~3でシオンとKOS-MOSの物語は完結である。などと言われても、人間としての成長が描ききれてないのではピンと来る筈もありません。
設定はストーリーあってこそ生きるのです。


最近監督はマップこそがRPGの要という話をしたことがありました。

新規RPGプロジェクト始動|株式会社モノリスソフト

ロールプレイングゲームの要はマップです。シナリオなどでは決してありません。
それがなければすべてが成り立たず、逆にそれさえ決まればすべての費用が算出できる――
これまでの経験からそう言い切れますし、モノリスソフトのスタッフも皆そう考えています。それほど重要なパートなだけに非常にやりがいがあります。

 

ハッキリ言ってこれは今現在の彼が出した考えであり、まだ若くギラギラしていたギアス・サーガの頃とは違い、数十年かけて出た「作り手側」の目の結論だと思います。
実際そう言っています。

 また、ゼノブレイド1の社長が訊くではこのようなことも言っています。

社長が訊く『ゼノブレイド』

若い頃の僕は自分を表現することに精一杯でした。

自分が楽しければいい、自分の好みの先鋭的な作品をプレイヤーに伝えるんだ、
わかる人だけわかればいい、それがRPGの楽しさなんだ、という想いに
取り憑かれていたんです。

(略)

はい(笑)。でも、それはある意味とてもいいことだと思うんです。
やっぱり若いからこそ生み出されるパワーがあって、
それは誰もが必ず通る道であるように思います。
いまでも、かつての自分がそうであったように、
若い世代のクリエイターたちが、
わかる人だけがわかればいいと、
そういう想いでつくられるゲームは少なくありませんし、
そのような作品はゲーム業界にとって必要だと思いますから。

でも、いまの自分に当時のパワー、
ある意味、猪突猛進な無鉄砲さがあるか?というと、
さすがにそれはないと思います。
反面、物事をある程度は俯瞰(ふかん)から見られるようになったことで、
ものづくりの幅が広がったように感じているんです。
最近は、というか二児の父親になってからはとくに、
どうしたらより大勢のお客さんに楽しんでもらえるか、
ゲームとして共感してもらえるか、
ということを考えるようになったんです。

ですから「プレイヤー側」から見た時も等しくマップこそが全てとは私は思っていません。
とはいえ、表も裏もかき分けて作品を追いかけ続けていた私自身はなるほど、と思わなくもない部分でもありました。
それは、マップ一つとっても実はゼノにおける魅力・苦難・挫折は、マップが特徴的なゼノブレイド以降の作品に限った話ではなかったからです。

ゼノギアスの制作スタッフの余裕はDISC1の特に前半の暇っぷりと、DISC2の余裕のなさの差は如実に現れているのが見てとれます。
ラハン村をはじめ、ダジル・アヴェ・ニサン・キスレブ・タムズ・孤児院・シェバト・エテメンアンキ辺りの作り込み方は異常といっていいです。大抵の部分で◯ボタンを押すと何かしらのイベントが発生します。
しかし一方で制作が追い込まれたDISC2では、マップがないせいで濃密な設定が全く活かせず終わってしまった場所すらあります。具体例としてはマハノンやマスドライバー施設などなど。
ゼノサーガEP1や2に至っては、マップの制作が追いつかなかったためなのか、わかりにくくしてはいますが実はマップを使いまわしている部分すらあります。
一方で「明確に意図してマップそのものによってゲームの世界観や空気感を演出する」ということを暇を持て余した結果論ではなく、制作スケジュール内で実験的ながらも意識的に行い始めたのは、この話の以前から私はゼノブレイドではなく、EP3からだと思っていました。
ともかくそういった考えに至った経緯は、割と納得がいくことでした。

ゼノを語る上で欠かせないものは他にも沢山あります。曲、演出、あらゆるデザイン、声優の演技力、そもそものゲーム部分などなど…
このような部分と比べれば、実は設定や世界観といったお話なぞ、本来は優先度は低いものといっていいのです。
確かに私は考察厨・設定厨の分類ではありますが、ゼノに惹かれる理由は設定だけではないのです。絶対に。

この事はどうしても最初に言いたかった事なのです。本ブログにおける第一原則として掲げたいくらいです。

それでもこの場でわざわざそれを語るのは、恐らくは今後作品を振り返る上で、何かの役に立つと考えているからです。そんなことも意識しながら、お話したいと思います。
…前置きばかりですみません。次からでようやく本題に入ろうと思います。


ところで、ゲームのスクリーンショットってブログに貼っていいものなんでしょうか。

マップの使いまわしている部分についてとかは恐らくスクショ上げないとわからないと思うんですよね…