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ゼノシリーズにおける共通のテーマ性・グノーシス主義について②

ゼノシリーズにおける共通のテーマ性・グノーシス主義について②


今度はより具体的に、グノーシス主義の語る内容に入っていきます。

 

前回に話したとおり、人々は新たな救済を欲していました。大半はその後のカトリックである正統派キリスト教へと向かいましたが、
一方でグノーシスに走った人々がいました。それには様々な心情が起因となっているでしょうが、基本的には世の中に対する失望や厭世的な感情から来たと思われます。
しかし、ユダヤ教キリスト教つまり旧約聖書新約聖書の世界観に従えばそんなクソな世の中を至高の存在である神が作った事になってしまいます。
だから彼らは①「至高神と創造神は違う存在である」だとか、②「創造者は別に存在しこちらは神ではない」だとかという考えを導き出しました。
というか旧約聖書新約聖書で神のノリが明らかにそもそも違うので、別々の神ではないかと思ってしまうのも無理はなく、そういった懐疑心から来るとも言われています。紀元2世紀後半は新約聖書が完成する前の時代だということを思い出して下さい。
それらを既存の各地の神話体系とギリシャ哲学を取り入れて作ったのがグノーシス主義であります。今回はその世界観を具体的にお話します。

 

 


①「至高神と創造神は違う存在である」
という考え方はイラン型と言われます。
ペルシャ(現在のイラン)の国教であったゾロアスター教善悪二元論の影響を受けています。代表例がマニ教です。

ゾロアスター教善悪二元論というのは、Fate辺りで聞いたことがあると思うのですが、アフラ・マズダーという善の神とアンリ・マンユと悪の神が争う世界こそがこの世であり、それぞれ光と闇・生と死を司るという考え方で、善の勝利と優位は最初から確定した信仰です。
ここからはゼノには関係はあまりないですが、アフラ・マズダーの勝利が12000年後に確定しており、その際に善行を積んだ者だけが天国へ向かい悪は滅びる。という考え方はキリスト教ユダヤ教最後の審判に引き継がれました。
光を神聖視しているので、闇を照らす炎も神聖と考え、拝むために拝火教とも呼ばれます。あとは近親相姦を推奨したり、鳥葬なんかが珍しいのでよく取り上げられます。


その影響を受けたマニ教グノーシス主義の一つと見られている)は、至高神という善の神の作った霊的な存在とは別に、創造神という悪の神がこの世に物質を作ったがために人々が苦しんでおり、
ズルワーン率いる光の王国とアンリ・マンユ率いる闇の王国が戦いを行っていて、人々を救済するために至高神はゾロアスター・イエスキリスト・釈迦といった神の遣いを物質世界に送り込んだというなんだかソシャゲみたいな世界観です。オススメの動画貼っときます。

【ゆっくり解説】3分でわかるマニ教 - ニコニコ動画


そもそも心魂的なもの(プシュケー)と物質的なもの(ソーマ)が対立かもしくは対照関係にあるという世界観そのものがプラトン以降のギリシア哲学の影響を色濃く受けています。これについてもまぁ後々記事で説明したい分野です。…実数領域と虚数領域の話とかする時に。

 


②至高神と世界の創造者は別に存在し後者は神ではない

という考え方がシリア・エジプト型と言われます。代表例が西方グノーシス主義ウァレンティヌス派です。一神教に基づいた世界観なのだから、神は一柱のみという前提の元で理屈をこねると、こうなるわけです。偽の造物主は神ではないが、神を名乗る愚かな存在ということです。

ウァレンティヌス派といっていますが、ウァレンティヌスの他に弟子たちがいて、彼らも含めてウァレンティヌス派なので、ネットで調べると様々な名前が出てくるので、雑多に扱われてる場合があるので注意が必要です。
ウァレンティヌスプトレマイオス同じ名前もっと有名な人が歴史上に存在しますので、その点も注意しましょう。


ウァレンティヌス派はゼノで明らかに引用されているので、ウァレンティヌス派の世界観をこれから細かく説明します。ウァレンティヌス派は西方グノーシス主義の一番大きな派閥です。聞き慣れない名前が沢山出てくるので、画像を作ってみました。ガチでキリスト教の解説してるガチ系HPなんかにたまに似たようなのがあったりしますが、もう少しゆるく作っておきます。


で、実はこれを神話的に説明しようとする方法について、凄く悩みました。それは、どうにか噛み砕いて教えようとすればするだけ、恐らくは自分なりの解釈を加えてしまうのではないかと思ったからです。
おまけに前回に説明した通りで、グノーシスの多くが資料して散逸してしまったものであるから、 実際に内容について知るのはどうやってなのかというと、ナグ・ハマディ文書のようなもののほかは今回の場合であるとエイレナイオスという神学者が書いた『異端反駁』と、ヒッポリュトスが書いた『全異端反駁』という著作の中で、タイトルの通りグノーシスを批判する側である主流派の人が、最終的には「あいつらはこんなことを言っているが…」という意図で使う引用の引用ということにあります。だからこそ生き残ったし、和訳もされて出版もされているのですが、最初の時点で既に批判的なわけです。
なので、その事を重々承知した上で、私が書いてる以上私の理解レベル以下の拙い文章で、流れとして説明してみようと思います。
内容にはあまりにも聞き慣れない固有名詞が多い筈なので、まず、画像を用意しておきました。
ここでは必要なければあまり触れないですが固有名詞一つ一つそれぞれに、大抵の場合はどこかしらからの、大抵ギリシャ関係で引用される意味があるので、その辺を知りたい人は、ググってみましょう。
あと、エイレナイオスという神学者が書いた『異端反駁』と、ヒッポリュトスが書いた『全異端反駁』、この二人はグノーシス主義を批判するためによそ者が見聞きした事を話しているだけであるので、細かい所がちょっとだけ違ったりします。
ゼノ考察において、どうもどちら側のみが引用されていて正しいという事もないように思いますので基本的にエイレナイオスの『異端反駁』を用いて説明します。
ナグ・ハマディ文書からは『真理の福音』、『三部の教え』『アルコーンの本質』などを引用しています。詳しく知りたい方は是非その辺りを読んでみてください。

あと、恐らく疑問に思うだろう所にはWikipediaのリンク貼っておきます。話がいちいち脱線しないようにするために問題がなさそうな箇所は使ってしまいたいと思います。このブログはあくまでもゼノ考察ですので。
あとは意図的に、ゼノに出てくるキーワードは、ゼノの発音を優先して使っています。(プレーローマ→プレロマ ソピアー→ソフィア ヤルダバオート→ヤルダバオト とか。)

※但し、ザルヴァートルだけは使ってません。あいつの顔が脳裏に浮かぶとろくな事にならないので。

 

 

この表を見ながらであれば、多少理解しやすいかと思います。

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1.プレロマの創世~ソフィアの転落
まず始めにプロパトール(至高神、ビュトス。)…父がいた。
ヒッポリュトスがいうには第0のアイオーン。エイレナイオスがいうには、伴侶はエンノイア(シーゲー)がいて、数えて第1・第2のアイオーンである。と、解釈が分かれている。図説ではエイレナイオスに従う。

父の神性が流出(※)して、プレロマに「ヌース・アレーティア」、「ロゴス・ゾーエ―」、「アントローポス・エクレーシア」というアイオーンが出現した。それぞれ男性的アイオーンと女性的アイオーン同士であり、対(シュジュギア)(※)を持ち合わせていた。これらでオグドアスという。

アイオーン達は自分達が父の栄光のために流出された事を自覚し、父にあやかりたいと思い、父と同じく流出を試みた。
これにより「ロゴス・ゾーエ―」から産まれた10のアイオーン達、デカスと、「アントローポス・エクレーシア」から産まれた12のアイオーン達、ドーデカスで全てで30のアイオーンがプレロマに現れた。

ヌース以外の全てのアイオーンにはプロパトール(至高神)は不可視であり、把握も不可能であった。ヌースだけが父を眺めて楽しんでおり、測り知れない偉大さを考察して歓喜していた。
それをヌースは残りのアイオーン達にも教えてやりたいと思い巡らせていた。だがシーゲー(沈黙)がヌースを制止した。
父(至高神)の望みに従って、他のアイオーンはプロパトールを探求しようという憧れだけに留める方が良いと考えたからである。

しかし、最後の最も若いアイオーン、ソフィアは一線を越えてしまった。伴侶たるテレートスとの抱擁なしに、父の探求という情熱…パトス(感情)に取りつかれてしまった。
ソフィアは愛を口実として、父の偉大さを把握したいと欲してしまった。その結果、彼女は知ることができない現実と、知りたい欲望によって苦闘に陥り、プレロマから転落しかけてしまう。
しかし彼女はホロス(境界の神格化…別名スタウロス=十字架)によって制止され、固められた。そしてようやくのことで我に返り…それまでの思い(エンテュメーシス)を、激しい驚きのために後から生じたパトスと一緒に自らの分身として捨てた。
彼女は転落を踏みとどまり、テレートスとの対に復帰した。


解説

まず、流出という意味がわからないと思います。これは、新プラトン主義のプロティノスの考えが取り入れられているのですが、神と人間の関わり方の一つの考え方と言っていいと思います。
流出説とは神が人間のいるこの世界を創世したりするにあたっての工程として、最上位にいる神が階段の真上から水を流すかのように、だんだんと神性が下に流れ落ちていく様子を段階的に示すために使われています。
その段階を踏むことで、最終的に魂や肉体が産まれ、混濁したこの世界や生命などが誕生しているとすることで、我々もそれぞれ神との繋がりがあると説明できると同時に、
最も高い所に存在する神そのものは、人間から見れば段階があるぶん直接二点で結ばれた距離として測れば遠く離れた存在である、というふうに、超越存在を超越的である理由として説明しつつ、神と人との繋がりも巧みに潰さない理論です。
それと同時に、一神教のありかたを説明するのにも役立っています。大いなる父から神性が流出する段階で、その下では神的な存在が産まれ、神秘性は下へと分化しているので、多神教的要素を取り入れながらも矛盾せず唯一神を守ることが出来るわけです。
いかにもヘレニズム時代の一神教理論って感じですよね。
この理論は逆に言えば、人間は魂や肉体を一つ一つ上の段階へ踏みあがっていけば、いつかは神の領域に踏み入れることができる(帰還)。という事でもあります。この点も理解するにあたって説明するにあたって大事なポイントです。

流出説 - Wikipedia

30のアイオーンが存在する理由は、それだけ人間の世界がプレロマないしプロパトールから遠いということを図式的に表すのと同時に、メタ的にはイエス・キリストが地上に現れてから30歳までは活動していなかった事を数で示しているそうです。

この図説を見て「アニメとかゲームで見たあれと似てるな?」と思った方もいるかもしれないです。当たってます。そして、ゼノギアスではラジエルの解析シーンでも似たデザインが使われていますよね。
それはユダヤ教神秘主義集団のカバラの使うセフィロトの樹と呼ばれる図です。セフィロトの樹も、この流出説に基づいているので、同じ理論の別図といっていいです。ちなみに、セフィロトの樹の第5のセフィラはゲブラーといいます。
このカバラというものについても今後の記事で触れるつもりなので、とりあえずはそれだけで大丈夫です。


次に、対(シュジュギア・アンドロギュノス)という考え方についてです。見ての通り、ヴァレンティヌスのグノーシス神話では神的存在には男性的アイオーンと女性的アイオーンが存在します。
これも直接的にはギリシャ神話の影響を受けているのですが、原初の世界や神は両性具有性をもっていたと考えるものがあります。

太古の昔から今の時代においても人間にとって最も身近でかつ大きな理解し難いもの、かつ、(一般的には)渇望の存在でもある、といえば、互いの異性である…といっていいと思いますが、その両方の性質を持つことで完全性を示すという、神の超越的な要素を説明するためのものです。
ギリシャ神話に限らず両性具有の神や神話というのは東西をまたいでいくつか存在しており、異性は人間が持つ原初的で普遍的なテーマといっていいと思います。容姿が気になる人は例えばヘルマプロディートスでイメググるといいと思います。
多くのキリスト系グノーシス神話では、2つの対のアイオーンが男性的と女性的を担当して、あくまでその男女2者が対として手をとる事ではじめて完全な存在であるというような表現をしています。この点については次のソフィアの話にも続いていく要素です。
さてさて、この説明だけでピンと来る人もいるでしょう。ゼノギアスではまさしく話の中でそれを説明・表現していますよね。もしくは、ゼノサーガの超越存在である彼らを思い出すでしょうか。
ちなみに、ヌースだとかゾーエーだとかは、ギリシャ語の男性名詞と女性名詞を使う事で、わざわざ深く説明せずともこの点を言葉巧みに表現しているそうです。

最後にソフィアという存在が出てきました。彼女は今説明したとおり、テレートスという本来の対がいるにも関わらず、自身の父への愛と知的探究心を止める事ができませんでした。

知識というものを重視する筈のグノーシス主義においてさえも、知りすぎる事は良くないと釘を差している面もあります。
アイオーンは男女が対である事で完璧であるため、それによって不完全性となってしまったがためにプレロマから転落しかかってしまうわけです。これがソフィアの過失と言われる事件であります。
この強いパトスを捨てるために、己の分身を捨てる事で、テレートスとの対に復帰したわけですね。この分身のソフィアが今度は大きな働きを始めます。この分身も本体と同じく霊的存在であります。

 

2.ソーテールと天使の誕生
この事件を受け止め、他のアイオーン達の誰かがソフィアと似たことを被らないようにするため、父の計らいによってモノゲネースから再び別の対を流出した。
これが「キリスト」と「聖霊」である。キリストは彼らに「対」の本性を教えた。聖霊は彼らに「感謝」を教えた。
この教えによってアイオーンたちは形相と考えに関して等しくされ、男性的アイオーンは皆がヌースに、皆がロゴスに、皆がアントローポスに、皆がキリストになった。
女性的なアイオーンも同様に、皆がアレーティアに、皆がゾーエーに、皆がプネウマに、皆がエクレーシアになった。万物は固められ、プレロマに安息を導き入れた。
この恵みに対する感謝として、全プレロマは一致団結しそれぞれの持つ最も美しいものを持ち寄ってひとつにし、完全なる美、プレロマの星、すなわち「イエス」を流出した。
このイエスは「ソーテール(救い主)」とも、父の名を使って「キリスト」とも「ロゴス」とも呼ばれる。また、その護衛役として、同族の天使達(アンゲロス)が一緒に流出された。


解説
いよいよ救い主が現れましたが、見ての通り、キリストと聖霊とイエスが別の存在となっています。更に言えばのちの時代(4世紀。この神話は2世紀頃)に確定する三位一体説であるなら、父=プロパドールも含まれる筈ですよね。
この点は、先程の対という考え方を引きずっているためです。そう、「キリスト」と「聖霊」が対であるのに対して、「イエス」には対がいないのです。この点について、よく覚えておいてください。天使達にも対がないです。
更に言えば、「イエス」以外のアイオーンは、「キリスト」と「聖霊」の働きによってアイオーンを個々の存在から全てで一つ(でもある)、と、プレロマ内を統一させる働きを起こさせました。
「キリスト」はアイオーン達に、対が存在することということは遡って一番上にいる父だけは生まれざるものであることを証明している。父が見えざる存在であることが自分達アイオーンの永遠に存続できる原因であり、だから我々はみな父の子であると説明し、
聖霊」は均等化された他のアイオーン(対も上も下も)の存在全てに「感謝」することを教えました。
それによって、全ての男性的アイオーンはヌースであり、ゾーエーであり、ロゴスであり、アントローポスであり、キリストであり、
全ての女性的アイオーンはアレーティアであり、ゾーエーであり、プネウマであり、エクレーシアである。と、なったわけです。

この場で言うプネウマ(霊)が普遍的に存在する霊的な存在の意味であるプネウマなのか、固有の存在である聖霊のことを指すのかは私にはあまり見分けがつかないので、回答を控えさせてください。
恐らくは「男性的アイオーンは皆キリスト」と言っているのだから、文脈的には「女性的アイオーンは皆聖霊」と思っていますが、どうでしょうか。しかしそれなら本文も「皆がエクレーシア、皆がプネウマが」、と順番的に言うと思うんですよね。
このあともエイレナイオスは明らかに聖霊という意味でプネウマという言葉を使っています。
聖霊は正確には、「ハギオン・プネウマ」といいます。「プネウマ」でも聖霊を指します。区別しないこともよくあるというわけです。書き手がキリスト教司祭なわけですから、当然ですね…。
プネウマや聖霊そのものについては、すぐあとに説明します。……ロゴスについては…モナド解説の時まで気長に待ってください。いつ頃やるかはわかりませんが…

 

3.アカモートと、この世の三要素の成立
プレロマのソフィアはなんとか踏みとどまる事ができたが、彼女が捨てた思いから生じた分身のソフィア…エンテュメーシス(思い)=アカモートが陰と空虚の場所に産まれた。(ソフィアという言葉を使うとややこしいので以後アカモートと呼ぶ)
彼女には対が存在しないので、流産した胎児のように形もなく姿もないもの、光であるプレロマには無縁のものとして産まれてしまった。それをプレロマ内のキリストが憐れみ、十字架(スタウロス)を抜けて彼女に「存在に基づく」かたちを与えてプレロマに帰った。
かたちを持ったアカモートは、グノーシス(知識)は与えられなかったので、実体(ウーシア)を持ったに過ぎなかった。これは、自分より上の存在がいるという事を知覚し、より優れたものへの切望を持ってほしいと願ったからであった。

自分の惨めな境遇を知って動揺し、悲しみ、恐れ、落胆、無知といったパトスに取りつかれた。あらゆるパトスを受けたアカモートは自ら一人で乗り越えて立ち上がる事ができず、もう一度自分を置き去りにした光、キリストに向かって嘆願した。

プレロマに帰ったキリストは、再び降りることを躊躇し、かわりにソーテールを遣わせた。父はソーテールに全ての力を与え、万物を彼の権威に委ねた。他のアイオーン達もそれに従った。
万物とは、見えるものも見えないものも、位も神性も主権も、彼によって創られるためである。こうしてソーテールは、自分の仲間である天使とともに、彼女のもとに遣わされた。

アカモートは最初こそ彼を畏れてヴェールを被っていたが、彼がこの上なく豊かな実をもたらすものと気づくと、彼のもとへ走りより、その顕現の力を受け取った。

ソーテールはグノーシス(知識)に基づいて彼女を形作り、パトス(先程の負の感情)を切り離して彼女を癒やそうとした。しかし、既に習性となって力を得ていたために、先のアイオーンのソフィアと違って消し去る事はできなかった。
二人はパトスを混ぜ合わせて固め、非物体的であったパトスは物体的な物質となった。…こうして劣悪的なパトスからは物質(=サルクス)が産まれた。
加えて、アカモートはキリストから自分がプレロマの由来であることを知ったため、エピストロパペー(立ち返り)という性向が産まれ、このエピストロパペーからは心魂(=プシュケー)が産まれた。

アカモートはこれによってついにパトスから解放された。
ソーテールと彼を取り巻く天使たちの光を見たアカモートは、喜びのあまり発情し、出産する。その胎の実は、ソーテールの守護天使達に似た、霊的なもの(=プネウマ)であった。

こうして、サルクス・プシュケー・プネウマの三要素が成立した。

 

解説
いよいよ物質・魂・霊の三要素が揃いました。にしてもこれだけ見ればキリストは酷い奴ですよね。その後ソーテールは父から与えられた権能によってアカモートを救済してみせました。ところがまだ話が続くわけですが…。

ここで魂と霊がどう違うのかを説明します。この差は日本人にとっては非常に馴染みが薄く、また西洋ではみな理解しているかというといまいちそんな感じでもないです。
どちらにせよこの辺の違和感は和訳の場合のことであって、最初に訳した人と、多くの非キリスト教徒の日本人が多分身近に思う魂とか霊の感覚が違ったのが何もかもの混乱の元です。
ですから、4世紀以降定着する一般的キリスト教における三位一体説も、父とキリストはわかるが聖霊って何?とか、聖霊は神に入れるべきか?と疑問に思う事は自然で、実際に聖霊を含めない世界的超有名某キリスト教新興宗教もあるくらいです。

で、やっぱりこれも怒られそうな説明になるんですが、この場合の魂とは非常に雑に説明すると人々が持つ精神そのものです。皆が思う精神体としての魂、これが魂と言っていいと思います。心とか、組み合わせて心魂ともいいます。これをギリシャ語ではプシュケーといいます。
霊、もしくは聖霊というのは、神やそれに準ずるような神性なものの息吹みたいなものです。その定義であれば確かに人間の精神=魂とは違うのはわかると思います。
例えばギリシャの神殿で巫女が儀式を行って、予言を託されたとします。これを霊が降りた、というわけですね。
キリスト教観点で言うならば、神とは唯一神しか存在しないのであるから、それらの霊も全て神聖なものであれば、聖霊の起こしたものというわけです。超常的な現象や奇跡の類をネットスラングのアレと違って本来の意味で「神がかった」場合は聖霊が降りたというわけです。
逆に邪悪なものであれば、大抵の場合悪魔が降りたとか悪魔が乗り移った、などといいますよね。
キリスト教グノーシス神話における霊と魂の説明だけであれば、ニュアンスの差はこんな感じのみでいいと思います。

それと、アイオーンのソフィアと違いアカモートのソフィアはテレートスに当たる対がいないままだということも覚えておいてください。


4.デミウルゴスヤルダバオト)の誕生と、物質界の天地の創造
アカモートはこの三要素のすべてを使って、エピストロパペー(立ち返り)という性向をもとに、プレロマにいるアイオーンたちの模像を作ろうと考えた。
そこで心魂的なもの…プシュケーから、デミウルゴスヤルダバオト)を作り出し、全てのものの父であり、王となるようにした。しかし、全てのものとはいっても、霊的なもの…プネウマは自分自身と同質のものであるため、扱うことができなかった。

この父の名は他には、母父(メートロパトール)、父なき者(アパトール)、父(パトール)、一切のものの王、などという。(一般的にはデーミウルゴスの名を使いますが、ゼノなので以下は全てヤルダバオトで統一しますヤルダバオトナグ・ハマディ文書で使われている呼び名です)このヤルダバオトは自分を産んだ母親も知らずに、物質と魂を用いて七つの天を創造し、自身をその上に置き、母アカモートを八番目にと置いた。こうすることで、アイオーンの原始の八つのもの、オグドアスを再現した。
次に、楽園を第三の天に創造した。(キリスト教では聖書由来で第一の天は空、第二の天は星や月のある宇宙、楽園のある場所は第三の天としている)
大天使達や天使達は、残りのアイオーン達の模像である。(これらを全て、ナグ・ハマディ文書の『アルコーンの本質』では、アイオーンに対してアルコーンと呼び、第一のアルコーンといえば、ヤルダバオトの事を指す。)

アルコーンには七体のアルコーンの他に、十二の王ととなるアルコーン、更にヤルダバオトの下に360の天使=アルコーンがいた。
(7は当時判明していた太陽と月を含んだ土星までの恒星系の数を、12は黄道十二宮を指す。八番目であるアカモートは恒星天。総じてヤルダバオト天と地と天使を作った事を説明している)

ヤルダバオトはことごとく自分自身が作り上げたと思っていたが、実際は母であるアカモートが生み出したからである。天も地上も人間も知らずして作り上げた。
自分が作成したものの原型(イデア…この場合は模像となった元の存在)も、母についても無知であり、自分だけが全てであると思い込んだ。
だから、自分を唯一の神であると思い込み、それを預言者を通して人間たちに言って聞かせ、リュペー(悲しみ)から邪悪な霊が産まれたコスモクラトールと言われる悪魔(ディアボロ)や悪霊(ダイモニオン)も作った。
パトス(負の感情)から生じた物質から、狼狽(エクプレーシス)からはが、フォボス(恐れ)からはが、リュペー(悲しみ)は空気が産まれ、は死および滅びとして、これら全てに内在した。

ヤルダバオトは次に、物質の中の名が出る液状の部分を抜き取って泥の人間を作り、そこに心魂的な息吹(プシュケーはもともと息吹の意味から発展した言葉)を吹きかけ、(旧約聖書の創世記にある通り)模像と類似性に基づき人間を作った。
アルコーン達はヤルダバオトを含めて皆母であるアカモートを知らない。ましてやプレロマのことや、霊的なものであるプネウマという要素すら知らない。
だから、実はその人間の中に母と同質的な霊的なものが眠っていることにも気づかなかった。アカモートは心魂と物質の中に宿って成長し、やがては完全なロゴス(※)を受ける用意をするためであった。

アカモートはヤルダバオトをこのように導いて、彼自身を存在の頭(かしら)にして始原、業(わざ)全体の主にしようと望んだ。
アカモートのことをグノーシス主義者は他にオグドアス、ソフィア、大地(ゲー)、エルサレム聖霊、男性として「主(キュリオス)」などと呼んだ。
彼女はことが終わるまでは中間の場所を占めた。そこはヤルダバオトの上に存在し、プレロマの下、あるいは外にいた。

アカモートの種子を持つ心魂は他のものより優れていた。そのため、他の人間よりもヤルダバオトより愛されていた。
ただしそれは、彼がその原因を知っているからではなく、ただ自分が勝手に、自分がその原因だと思い込んでいただけである。
そのために彼はその種子を持つ心魂たちを預言者、神官、王に任命していた。今まで聖書に描かれた預言者によって言われた多くのことが、実はより高い本性を持つ種子を介して言ったということである。
預言には三種類存在し、母に由来するもの、ヤルダバオトに由来するもの、種子に由来するものがあった。
ヤルダバオト自身は自分の上にある存在をいないと思っていたので、彼らの言葉には心を動かされたが、そのつど何か別のものに要因があると思い込み、軽視していた。


解説

補足は括弧を使って解説してしまったのでこの辺りのお話は特に言うことがないのですが、あえていうなら「完全なロゴス」の部分でしょうか。
ロゴスについてはモナドの説明まで引っ張りたいのですが、この場合はざっくり言うと神の持つ男性的・父性的な霊体験くらいに思っておけばいいと思います。
多少時間的な食い違いというか順序が逆になってる部分がありますが、そこを自分が入れ替えるとかえって混乱しそうなのであえて弄っていません。

ヤルダバオトヤルダバオト由来の預言者と、ソーテール以外の預言を軽視した理由は、預言のふりをしているだけだろうとか、劣悪なものの絡み合いが原因であろうなどと思っていたからだそうです。
ソーテールが来臨するまでは本当に無知なままであったのです。


5.ソーテールの地上への降臨
人間にはこのように三要素の人間がいることを示しているが、心魂的なもの、霊的なものは人間自身の行いによってどうにでも傾く
その感覚的な訓育のためにこの世は具えられており、心魂的な人々の行く先は自分達の選択次第であるがゆえ、彼らを救うためにソーテールは降り立った
そのために地上に降りたソーテールは、アカモートから霊的なものを・ヤルダバオトからは心魂的なキリストを着せられ、経論(オイコノミア)から身体を受けていた。(※)
身体の実体は心魂的なものであり、ソーテールが見えるもの・触れることができるもの・苦しみが味わうことができるように、言い表し難い技巧をもって作られていた。
しかし物質は救いを受容できないため、彼は物質的なものだけは一切受けていない。(※)

地上に降り立ったソーテールによってすべての霊的なものが知識によって形作られ、完成する時が成就の時である。(成就の時とはつまり、ヤルダバオトの作った物質の世界にとっては、終末の時を意味する。)

ソーテールの降臨の流れは、まずヤルダバオトが自分の息子となるように水が管を通って流れるようにマリアを通り抜けて心魂的なものとしてこの世に流出した。その者の中に、洗礼の際、ソーテールが鳩の姿で降り立った。この時既に、アカモート由来の霊的な種子も内に持っていたという。
ソーテールはこうして、アカモート由来の霊的な種子、ヤルダバオト由来の心魂的なもの、言い表し難い経論による技巧に由来するもの、ソーテールすなわち彼の上に降り立った鳩の4つの要素を持って産まれた。

ソーテール自身は受難を受けていない。彼はピラトの前に引きずり出された時(新約聖書の通り。イエス・キリストの処刑を決めた人)には既に取り去られていた。母に由来した種子も霊的なものであるから、物質的苦しみを受けない。
だから心魂的なキリスト、および経論によって造られた者だけが受難した。但しそれも秘義(※)的にである。こうして受けた受難の形を人々に示したのは、すなわち、母アカモートが上のキリスト(アイオーンのキリスト)が行った行動を模像的に示すためであった。
つまり、アカモートが胎児のようだった頃、十字架(スタウロス)を抜けての実体(ウーシア)を与えてくれた、キリストの姿かたちを地上に再現してみせたのである。
こうしてソーテールは我々に霊的なものの存在を認識させてみせたのであった。

ヤルダバオト自身もソーテールの預言によってすべてのことを学んだ。喜びの余り、ソーテールの元に全力で馳せ参じた。新約聖書に書かれている百人隊長とはヤルダバオトのことである。(マタイ8章9節、ルカ7章8節)
ヤルダバオトは然るべき時までこの世の経論(※)を全うする。教会のことが気がかかりなのと、自分に対する報いがあることを知っていたからである。
報いとは、それまで自分の母がいた中間の場所までやがって上がっていけることである。


解説

経論(オイコノミア)とはエイレナイオス『異端反駁』の和訳者でありグノーシス研究の日本の筆頭の一人といっていい大貫隆が当てはめて訳したものです。
複数の場面で使われているのですが、この場合は「キリストの可視的身体を構成する材料」と「ヤルダバオトによるこの世の統治」いう意味であるそうです。

物質的なものを受けているのか・受けていないのかは実はウァレンティノス派がイタリア派とアレクサンドリア派に分かれるほど当時から議論されていた要素らしいです。

秘義という言葉はグノーシス主義のその後の話をするのには非常に重要なのですが、この場合は何らかの奥義によってそういった現象を起こしたくらいの意味でいいと思います。


6.グノーシス的終末論
(霊的な)種子が皆完成される時には、彼らの母なるアカモートは、中間の場所から離れてプレロマの内部に入る。そして、全てのアイオーンから生じた、あのソーテールを花婿として受け入れる
結果、ソーテールとアカモートが対となる。そしてこの対が花婿と花嫁であり、全プレロマはそのための新婦の部屋である。
霊的な者達は心魂を脱ぎ捨てて、叡智的な霊となり、何によって制されも見られもせずにプレロマの内部に入り、ソーテールの従者たる天使たちに花嫁として委ねられる。
そして、ヤルダバオトはそれまで母なるアカモートがいた場所、すなわち中間の場所に移動する。また義人の心魂も中間の場所で止まり、そこで安息するであろう。
心魂的なものはプレロマの内部まで進むことはできないからである。
これらのことが生じる時、この世に潜む火が輝き出し、発火して、全ての物質を焼き滅ぼした後、その火も一緒に燃え尽きて無に帰す。
ヤルダバオト自身も、ソーテールの来臨以前には以上の事を知らなかったという。

人間には霊的種族、心魂的種族、泥的種族の三つの要素があるが、それはちょうどかつてカイン・アベル・セツ(セト)が存在したのと同じである。
三人に即して人間には三種類の本性が存在し、泥的種族は滅ぶ

心魂的種族は善きものを選ぶのであれば、中間の場所で安息することができる。悪しきものを選んだならば、泥的種族と同じく滅ぶ。

義なる心魂たちには、アカモートが霊的なものを種子として蒔いている。蒔かれた霊的なものはこの世で訓育される。成長した霊的なものは、完全なものとなった時、花嫁としてソーテールの天使たちに委ねられるであろう。

そして残った心魂はヤルダバオトと共にいつまでも中間の場所で安息されるのである。

 

こうして、プレロマに全ての霊が集まり、アイオーンのソフィアの起こした過失は、我々人間がプレロマに帰還することにより、ついに宇宙が真の安定を取り戻すのである。

 

 


以前に話した「イエス(ソーテール)」やアカモート、天使達には対がいないという件は、最後の最後でこうやって締めくくられます。
今までまるで物語の傍観者的であった我々人類は、最終的に霊的な種子が完成する頃には天使達に委ねられて、プレロマに導かれて結婚するという形で締めくくられるという非常に壮大なストーリーで幕を閉じます。
エイレナイオス『異端反駁』はあくまでもグノーシス主義の批判を行う目的の本なので、この1巻の冒頭の話でこの辺りの説明をした後は、延々と5巻にわたって、他の派閥も含めて批判を展開し続けています


で、どうですか?このお話。…自分がハーブキメてて妄想癖があるというわけでないなら、ゼノに詳しい人なら、多くの部分で”あの”作品が引用していることがわかると思うんです。
これ以上解説をしてもそれ自体が、考察をする上で出てくる想像や可能性を潰してしまう気がして、あんまり深くは語らないようにしたいくらいなんですが、それではブログの意味がないので、どの辺りを引用しているのかは一応試みてみたいと思います。

しかしこのブログでグノーシス主義を扱う理由はあくまでもテーマ性の方であって、最初に話したグノーシス主義の定義、つまり、

1.反宇宙的二元論

2.人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信

3.人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在

の方を扱いたいという事だけは念押ししておきます。本題とは違うということですね。

私がグノーシス主義を通してやりたいことは、この部分をどうやってゼノでRPGに落とし込んでいるかの方であって、クロスワードパズル的にゲーム内の意味や言葉を引用をして並べておしまい、にするつもりではないので。
とはいえ、まぁ、今回の投稿の反応は一応見てみたいんですが、ここまで念入りに神話を説明してしまっては、みんなそっちの方が先に興味が湧いてしまうんじゃないかとも思ってます。

ですから…まず次回はゼノギアスの話をクロスワードパズル的考察でしてみたいと思います。言っちゃった。
とりあえず今のうちにとどめとしてこの話だけしておきます。

ソフィア(ソピアー)は、グノーシス主義の前からギリシャ神話ではもともと知恵、叡智の女神であるとされていました。Sophiaという言葉が女性名詞であるように女性として擬人化したわけです。Philosophy、哲学という言葉もここからきています。
ソフィアは己のやりすぎな探究心による過失と、父に情欲を持ってしまった情婦という側面もあったわけですが、結果的にはその過ちによってイエス・キリストを生み出したとも取れるわけです。
そして彼女の分身はヤルダバオトを産み、母とも呼ばれる。そう、グノーシス主義が廃れる頃には、ソフィア信仰は、聖母マリアの信仰へと変化していったのです。
それによって過失とか情婦という要素は排除され、完全な母の信仰というのが聖母マリアなのです。…今回母って言葉何回使ったでしょうかね。

それだけではなんですから、次回はグノーシス主義の終焉とその後の系譜的な発展方向についても説明したいと思ってます。

 

 

 

参考文献 

教文館キリスト教教父著作集19: ヒッポリュトス 全異端反駁』 ヒッポリュトス著、大貫隆訳 2018

教文館キリスト教教父著作集3-III: エイレナイオス1 異端反駁I』 エイレナイオス著、大貫隆訳 2017

岩波書店ナグ・ハマディ文書・チャコス文書 グノーシスの変容』 荒井献(編集、翻訳),大貫隆(編集、翻訳) 2010

講談社グノーシス (講談社選書メチエ)』筒井賢治著 2004 

岩波書店グノーシス「妬み」の政治学大貫隆著 2008 

春秋社『グノーシス主義の思想―”父”というフィクション』大田俊寛著  2009 

ぷねうま舎グノーシスと古代末期の精神 第一部 神話論的グノーシス』ハンス・ヨナス著・大貫 隆訳 2015 

ぷねうま舎グノーシスと古代末期の精神 第二部 神話論から神秘主義哲学へ 

』ハンス・ヨナス著・大貫 隆訳 2015 

新教出版社キリスト教ローマ帝国 小さなメシア運動が帝国に広がった理由』ロドニー・スターク著・穐田 信子訳 2014